お問い合わせ

入会お申込み
テロメア特設サイトはこちら
シャスラワイン専用サイトはこちらから
クラブ・コンシェルジュ Associé
ニッポンの贅と美 歴史・世界遺産探訪-萩-

松陰の「志」にふれる

1854(安政元)年、吉田松陰はペリー率いる黒船に乗船、アメリカへの密航を企てます。彼のこの行動から日本の近代化が始まったといっても過言ではありません。

なぜそんな無謀な行動をしたのか-彼は長州藩の兵学師範という要職にありながら、「志」を持って、日本という国の行く末を考えていたからにほかなりません。そして彼の行動がやがて「松下村塾」という私塾へとつながり、彼とともに学んだ塾生たちが討幕、明治維新を推進していくことになるのです。

日本海に面する29万石の長州という小藩が、なぜそんなことができたのでしょうか。吉田松陰の足跡をたどりながら、その謎に迫る歴史・探訪の旅。今回は「維新胎動の地」といわれ本年7月に世界遺産にも登録された萩の町の観光と山陰の名湯・長門湯本温泉の名宿「別邸 音信(おとずれ)」の特別宿泊プランをご用意いたしました。

世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つに選ばれた萩の旅を、どうぞご堪能ください。

松陰の「志」にふれる 山陰の名湯・長門湯本温泉「別邸 音信」のお申し込みはこちら



松陰の教え
加賀友禅
今も「先生」と慕われる松陰

 「志を立てて以て万事の源と為す」
(すべてのことは志を立てることから始まる)
自分は何をなすために生まれてきたのかを問え、と松陰は説きました。


至誠 「志誠にして動かざるは未だこれに有らざるなり」
(至誠をもって対すれば動かすことができないものはない)
「至誠」とは誠意をもってことにあたれということです。彼は「勉強だけではだめだ、行動が第一だ」と教えています。


華夷(かい)の弁 「国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり」
(国として最も大切にすべきことは、日本の文化の独自性を自覚することである)
自分が生まれたところを世界の中心と考え、まずはふるさとに腰をすえ、がんばろうではないか、と松陰は塾生を鼓舞しました。



長州藩の城下町・萩で暮らす若者たちの心をとらえた言葉が「志」でした。「志を立てて以て万事の源と為す」-すべてのことは志を立てることから始まる-「あなたの志はなんですか」と年下の塾生たちに対して、吉田松陰は質問していたといいます。この時、彼は弱冠28歳でした。

松陰が開いた私塾「松下村塾」は、塾生の身分や性別を問わず、平等主義を掲げます。血気さかんな萩の若者たちが昼夜を問わず集まってきたといいます。

松陰の言葉に触発された塾生たちは、自らの志を探し始めます。そして彼の「勉強とは行動が伴って初めて意味がある」に共感します。

松陰自身、己の志のためにアメリカへ渡りたいと密航を企てるような行動力をもった男でした。松陰は長州藩においては罪人でしたが、萩の若者たちにとっては羨望の的だったことは容易に想像できます。

また、松蔭の目は常に海外に向いていました。単なる憧れではなく、「日本」という国の将来を見据えてのものでした。それが「華夷の弁」という言葉で語られます。「華」とは自分が生まれた国、つまり日本を指し、日本を中心に考えることの大切さを説きました。今でいえば日本人としてのアイデンティティとでもいうべきものでしょうか。

この言葉に塾生たちは己の志を重ね合わせ、尊王攘夷(天皇を中心とした世に戻し、外国を打ち払うという意味の言葉)へ突き進むことになります。松下村塾に参集した若き面々の名を列記すると、攘夷を決行した久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一をはじめ、奇兵隊を組織した高杉晋作といった四天王と呼ばれた塾生から、後に初代総理大臣になる伊藤博文まで多士済々です。

今も幕末の塀がそのままの姿で残る萩の町を歩くと、松下村塾の塾生だった高杉晋作の生家や、後に明治政府の要人となった木戸孝允(桂小五郎)の旧家などが次々に出てきて、まるで江戸時代に迷いこんだような錯覚におちいります。

160年ほど前、塾生たちが同じ道を歩いていたかと思うと、往時が身近に感じられます。

萩に暮らす人たちは、今なお親しみを込めて"松蔭先生"と呼びます。市内の小学校では松蔭の言葉を朗誦し、『松蔭読本』を読む時間があります。彼の教えは今も、萩の町に息づいています。


松陰の功績

塾生たちと生きた萩

吉田松陰とは、どういう人物だったのでしょう。その生涯を見ていきましょう。

1830(天保元)年に始まった安政の大獄により、安政6年、江戸に護送され、死罪を言い渡されます。同年10月27日、江戸伝馬町で斬首刑。数え年で30歳でした。

松蔭の辞世の歌としては、前日までに記した「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」が有名ですが、処刑の当日、刑場を出る直前に詠んだ「此程(このほど)に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)をけふきくこそ嬉(うれ)しかりける」という辞世の歌も残しています。

「長州は本州最西端の辺境だが、やがて天下を奮発震動させる多くの人材は、必ずこの松下村塾から生まれるであろう」と松蔭は述べています。松蔭は自らの死を示すことで、日本を変えるきっかけになることを信じ、「うれしい」と詠み、死を受け入れたのかもしれません。

1890(明治23)年、松蔭がこの世を去って30年足らずで、彼を祀って神社が建てられました。
松蔭の実家である杉家は、松下村塾改修の際、私祠として村塾の西側に土蔵造りの小さな祠を建立します。
その後、かつての塾生の伊藤博文、野村靖などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運動が起こり、1907(明治40)年、山口県から正式に神社創設が許可されました。

現在の社殿の隣に、1955(昭和30)年に新しく完成したものです。それ以前の社殿は「松門神社」として、松蔭の門人であった人々の霊を祀っています。

松蔭神社は学問の神として信仰が厚く、境内には、近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出した松下村塾や、松蔭ゆかりの史跡などが点在。吉田松陰幽囚ノ旧宅も隣接しています。

萩の町で志を持ち、その思いで時代を動かした吉田松陰。今、彼は遺言通りに学問の神となって、彼が必死で守ろうとした国・日本を、萩から見ています。

わずか160年ほど前、萩という地で起こった奇跡とでも呼べるような、時代の鳴動をぜひご堪能ください。


訪ねたい萩の見どころ
■明倫館
加賀友禅
1719(享保4)年に毛利吉元が開き、1849(嘉永2)年に毛利敬親が現在の地に移しました。敷地は約5万㎡もあり、藩校としては水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並ぶ規模を誇ります。吉田松陰は19歳で明倫館の兵学教授となりました。
現在、敷地内には明倫小学校があり、坂本龍馬が試合をしたという剣・槍術場の有備館、水泳や水中騎馬の練習が行われた石垣で囲った水練池、観徳門などが残っています。




■萩博物館加賀友禅
萩は、まち全体を博物館としてとらえ、『萩まちじゅう博物館』という新しいまちづくりに取り組んでいます。萩のお宝を保存・活用しようというこの活動の中核施設が、萩開府400年の記念日である2004年に開館した萩博物館です。
収蔵品総数18万7千点、幕末・明治維新はもちろん、萩の自然や歴史、民族、文化など、萩に関するあらゆることが学べる空間になっています。



松陰の「志」にふれる 山陰の名湯・長門湯本温泉「別邸 音信」のお申し込みはこちら